水土里ネット寒河江川
清らかな水と豊かな耕土から最高の農産物が育まれます。 

歴史と文化

○天平18年、聖武天皇の勅命でインド僧婆羅門僧正が開基礎したと伝えられる慈恩寺(国指定重要文化財)を始めとして、慈恩寺一切経会で奉納される「慈恩寺舞楽」、鎌倉時代から400年間寒河江を治めた大江公ゆかりの行事として鎌倉武士勇壮を今に伝える「古式やぶさめ」、豊作を願って踊られる「日和田弥重郎花笠田植踊り」や山形県の母なる川最上川舟運などにより、悠久の時を刻む歴史と多くの民族芸能や伝統行事を根付かせている地域で、先人の暮らしの中から生まれ、そして黙々と伝えられてきた数々の伝統行事は、今でも地域の生活の中に連錦と息づいている。

 

 

○鎌倉幕府政所別当大江広元領の「奥州征伐」の論功行賞により、嫡男大江親広公が居館、以後18代四百年間に渡って、寒河江城を中心に大江一族により収められ栄えた歴史深い街。

 

 

○江戸時代の300年間は幕府直轄領となり、「最上川紅花」の主産地として、最上川舟運を通して京都、大阪との結びつきもあった。

 

 

ニノ堰の歴史

○二ノ堰は、毛利元就公の先祖にあたる大江一族の8代時氏公、9代元時公が城主であった中世南北朝時代に、この親子により行われた寒河江城の改築工事に伴い、三の丸城濠に大量の水が必要となり、その方策として寒河江川から新水路を掘り起こしたもので、これが現在の二ノ堰水路にあたる。その水を農業用水として利用し、寒河江一帯1,000haの美田が開発された。

 

高松堰の歴史

○高松堰は、鎌倉時代に開削されたとされているが、下流地域は用水不足に悩む地域であったため、これを見た元九州の武人菊地右京助末孫であった雨池村の菊地藤五郎が約400年前に卓越した測量技術によって、全長8,000mに及ぶ新堰水路を完成させ、寒河江西部方面の耕地開発が一段と進展した。

 

新堰の歴史

○鎌倉時代に幕府の政務を務めた大江広元公の子孫で鎌倉から逃げてきた大江家の分家高屋元詮の家臣として仕えた紀州生まれの武田長興頼母の子孫で24代目の武田 健が太平洋戦争中に高屋周辺の用水不足による争いを解決するため、最上川から隧道を開削し140haの開田整理が進んだ。

 

大堰の歴史

大堰は450年ほど前、谷地域の城下町として街内水路として整備がなされた。昔は、谷地域主であった中条長昌公の幼名を用い又四郎堰と呼ばれていたとあり、農業用水路、生活用水として現在の河北町の発展に貢献した。

このような先人たちの苦労の上に農村基盤・社会基盤が形成されており、当水土里ネットではこれらの先人の偉業を守り伝える「語り部」としての役割を担っていきたい。

 



Copyright(C)水土里ネット寒河江川 All Rights Reserved